キツネノカミソリ
11日(火)少し気温が下がった。朝5時半、友人に誘われて角田登山。浦浜コース、キツネノカミソリという黄色い花とヤブランという花の名を憶えた。早い時間帯なのにすでに車が4台。階段が続き、息が切れた。体重を減らさないと・・。午後3時からテニス。
当時の居留民の様子をWikipediaによってもう少し詳しく見てみよう。新京在留邦人14万人のうち8月11日未明から正午までに18本の列車で3万8000人が脱出した。その内訳は軍人関係家族2万0310人、大使館関係750人、満鉄関係1万6700人、民間240人。
説明では総参謀長統裁のもとに官民軍の関係者を集め、民官軍の順序で退避させることを決定していたが、集まった順番で退避することになったとあるが、全く不自然である。軍人家族の脱出の指揮を執った参謀長・秦彦三郎夫人などは平壌から飛行機で18日、無事帰国している。
群落
作家の藤原ていの夫新田次郎は満州国の官僚だった。ていの満州からの逃避行を描いた「流れる星は生きている」は涙なくして読めないが、その中で、退避の連絡は軍人と官僚のみに出され、てい自身も避難連絡を近所の民間人には告げず、脱出したと書いている。
また、辺境に近い牡丹江に居留していた作詞家・なかにし礼は、避難しようとする民間人が牡丹江駅に殺到する中、軍人とその家族は、民間人の裏をかいて駅から数キロ離れた地点から特別列車を編成し脱出したと証言している。安倍が言うように軍は国民を守らないことは歴史が証明している。
この無責任体制は現在まで続いており、福島原発事故のさいも事故の情報に最も近い立場にいた経産省関係者は「海外にいち早く妻や子息を逃がした経産省の大臣や幹部とは異なり、一般職員の多くは情報から疎外され、家族を疎開させる・・」(若杉冽著・東京ブラックアウト)
ヤブラン
真偽のほどは知らないが、ネット上には事故当時の東電の会長・勝俣恒久、清水正孝社長、武井副社長、宮本常務、木村取締役、藤原監査役の家族は海外に逃亡させ滞在していたと。(現在は不明)この人たちが危機感を煽り、一旦危機に至れば、最初に逃げるのだ。
ポツダム宣言受諾後も満州では戦闘が止むことはなかった。ソ連軍による発砲、略奪、強姦、機銃掃射を浴びせた。同時に中国農民も恨みを晴らせとばかりに襲い掛かってきた。居留民を守るべき関東軍は彼らを置き去りにして、橋を破壊しながら逃亡してしまった。
満州での戦闘が最終的に終わったのは9月2日の降伏文書への署名後、5日になってである。その間に残留孤児や残留婦人の問題を引き起こし、シベリア抑留の悲劇を生むことになったのである。この責任は誰にあるのか。昭和天皇であることは明らかではないか。








